情報時代の知の生態とは:福永英雄著『リスク、文明、還流』
※この記事は2015年1月24日にFacebookへ投稿した記事に追記しています。
福永英雄著『リスク、文明、還流』 論文読み終わりました。福永先生の専門が情報系の為、自分の職種と繋がる所もあり興味深く読みました。
(前略)複雑化・高度化・高度情報化したリスク危険性(中略)言わば《ハイパーリスク》は一体どのような社会的主体性がどうやって認知し、対応の青写真を描くのか、難しいところだ。(p204)
筆者はまず高度化する技術に対して『科学知』、『専門知』、『専門家』と3つの領域に分けて考える。その上で高度化する専門知に対する『装置系・制御系』(法体系)の対応が遅れているという指摘はその通りだと思う。
だが、AI(人工知能)や高速開発ツールの台頭によって更に高度化する情報社会の中で『専門家』である人間が判断をする機会、即ち『人間層』の主体性が著しい低下の一途を辿っている事は間違いないく、モノのインターネット(IoT)によって『環境コントロール装置系』が完成しつつある。果たして『制度系・制御系』による『人間層』への『予防』が意味を持つのだろうか。という疑問を持ちざるを得ない。『物質層』でもなく、変容可能で違背不能の『生物層』と同等である「情報層」が生まれつつあるのではないか、と思うのである。
この「情報層」が違背可能まで行けば、それはもはやSFの世界だけれど、siri(iPhoneのコンシェルジュサービス)から「こっちのお店の方が彼女の好みですよ」といつの間にか言われるのではないかと、笑ってもいられないのが、正直本音である。
「学際知」が現代文明の中で必要となってきているのは、「人間とは何か」という問いを真摯に追いかける人工知能研究を見ても明らかだろう。人類の知もまたひとつの生態系とするならば、比較文明学が一体どこへ向かうのだろうか。